野村四郎師にインタビュ「名人能役者に能楽を聞く」1998

名人能役者に能楽を聞く
観世流シテ方 野村四郎師にインタビュー

 当代一流の名人能役者の野村四郎さんは、日本の古典芸能の能楽界を背負う観世流のシテ方である。シテ方とは能の舞台で主役を務める役者のこと。芸においても師範としても能楽界を率いる、
 能楽には能と狂言がある。野村さんの父上は人間国宝だった和泉流狂言役者六世野村萬蔵である。狂言の家に生まれて、四人兄弟共に幼少から狂言師になる教育を受けたが、四郎さんは能に魅せられて、ひとりだけ能役者になって今日に至ったのだ。
インタビューして能楽の観方を教えてもらった。

伝統芸術を伝える家の芸の修行は
どのようなものですか
野村四郎師:父の教育はスパルタ教育で、子供には怖かったものです。明治の人はそれが当たり前で、芸ばかりじゃなくて精神をも鍛える目的があるのです。今ではそれが理解できますが、子供にそんなこと理解できません(笑)。ただただ、おっかないおやじだ、稽古がいやだなと思うばかりでね、学校から帰って、おやじがいるかいないか大問題でね(笑)。
 父に対して肉親の父親と感じるよりも、鬼か蛇かとまではいわないけど(笑)、普通の家庭の親子関係とはかなり違うものでしたね。だから逃げ出して能のシテ方になったのじゃないですよ(笑)。
 能と狂言はひとつの舞台で生まれた兄弟のようなものですが、それぞれに磨かれ発展してきました。狂言の稽古はまず舞いと謡いですから、能と同じです。舞うことで姿勢、謡うことで発声を訓練してまず肉体をつくる。次に泣いたり笑ったりの稽古になります。狂言は笑いの芸と思われていますが、能とともに武家社会で生きてきたので、現代のテレビ流のお笑いとは違います。
 そうやって子供のときから父親のお供で能楽の場に出入りしながら狂言の修行しているうちに、能に魅せられて行って、ついに十五歳のときに能楽に転向したのです。狂言は庶民派でね、着ているものも質素で、主に庶民のできごとがテーマですが、能はドラマとして狂言とは違う次元で作られ、衣装も豪華です。狂言に通常は囃子が入りませんが、能には必ず笛や太鼓の演奏があって謡い舞います。
 金糸銀糸をちりばめた衣装を着ていて、狂言と比べると実にロマンチックなものですよ。能にひきつけられていった私は、もともとロマンチックだったのかなあ(笑)

能を始めて見ると、なんだか分からなくて眠く
なるのですが、こうに見ると分りやすい、面白
いというコツのようなものがあるのでしょうか
野村:能を見て眠くなるのは、母親の胎内にいるのと同じ気分になるからという説があります。しかも眠くなるのは、演奏がよい時でね。いい気持ちでしょ、眠くならないのは悪い演奏だ(笑)。
 ま、漠然と見ていては退屈するでしょうね。だって一歩外の忙しい世界と違って、能楽堂の中はゆ.っくり時間が流れている。タイムスリップしている世界を逆に楽しんでいただけばよいのです。
 お囃子の音楽が面白い、歩き方が普通じゃない、仮面が奇抜、豪華な衣装だと、いろいろ視点を移しながら観賞していただくと飽きませんよ。
 一曲が1時間から1時間半くらいですが、初めはテンポがゆっくり、だんだん早くなり、後半で本体が現れて面白くなるのだけど、前半で飽きて寝てしまう(笑)。
 ちょっと難しい言葉だけど「序破急」といって、リズムが助走から次第に加速する、その繰り返しなのです。1句の中、1節の中、1曲の中にもそれぞれ序破急があるのです。西洋音楽の交響曲だって出だしから急ピッチじゃないでしょ。序曲から始まり、だんだん調子が上っていく。初めのほうの序の段階は、どうしてもスローだから眠くなる。破から急に面白くなるのですがねえ。そう思って最初は我慢していただいていれば、次に楽しい花園にご案内いたしますよ(笑)。
 この間、フランスで能の公演をしましたが、言葉の違いで分らないとは全く感じませんでしたね。

でも日本人だって、能の言葉はわかりにくいのです。
野村:そういう点では、かえって外国の方が楽だね(笑)。動きは万国共通に理解ができますからね。でも、能にも動きの約束事があります。例えば『ああ、悲しい』という表現も、ヨヨと泣き崩れたりしません。手を顔の前に持って行く「シオリ」という型をしま
す。東南アジアの踊りでも手の動かし方でいろいろの感情を表現しますし、バレーでも型がありますよね。そういう型を追いながら見るのもひとつの方法でしょうね。
 でもね、役者のシオリを見て、今この人は悲しんでいるんだなと知るような演技では困る。「シオリだぞ、さあみんな悲しめよー」とブロックサインじゃない、野球しているのじゃないんだから(笑)。悲しさが先に伝わらなければなりません。
 とにかく初めは、比較的易しい作品を選んでご覧になるといいですよ。能には鬼退治のおとぎ話もあれば、実に高度で難解な作品まで、みんなそろっています。初めて見る能が、例えば花の精や老女が主役の作品にぶつかると、これは難解で退屈です。易しいものから見ていくうちに、文章も分るように聞こえてくるものです。外国で暮らしているうちに、初めは分らなかった言葉も次第に分ってくるのと同じです。時間をかけて見ていると、必ずこれは面白いというところに到達します。

日本で生まれた伝統舞台芸術には、日本人に特
有の型があるのでしょうか
野村:だいたい日本人は胴長短足で重心が低い。それが和服を着ている姿をバランスよく見せていたのですね。あまり足が長いとバランスが崩れる。短足胴長の方が、舞台に落ち着きが出るのですね。そう、足の長い人たちが生み出した芸にバレーがあるね(笑)。
 バレーは跳躍の芸のように思いますが、能は逆に大地に根を生やしているような動きが基本です。「舞い」の原点は「回る」に始まると言われますが、四角な舞台を円を描いて行って、直線と曲線を融合させるのです。ほかの舞台芸術は歌舞伎が典型的なように、額縁のあるステージだから横に動くことを主に作られていますね。
 ところが能楽では舞台を前後に動いて、真横に動くことはあまりありません。舞台が客席に向かって傾斜していて、そこをジグザグに登って行くと思っていただくとよいでしょう。

能は、舞台を見ている観客が、理解するために努力が必要
のように思います。舞台装置が何も変わらないので、スト
ーリーや役者の動きで場面が変わったことを頭の中にいれ
ないと、その先について行けません。演じるほうも大変で
しょうが、見るほうも実は面白くかつ大変なのです(笑)
野村:なにせ、何もないところに何かを生じさせようとするのですから、演じる方は大変です。今日ではテレビが典型的なように、ミカンでも食べながら気楽に見ていると、全部解説してくれて、向うからなんでも分からせてくれるのですね。
ところが能は「無精な芸術」なんです。役者から訴えるけれど、観客に説明はしない。互いに感じ合うところで運ばれて行く。
 歌舞伎だったら、舞台装置の雪景色もあるし、太鼓のドロ~ンドロォ~ンという音で雪を表すけれど、能の舞台には一切ないのです。
 なにもない舞台に演技の力で森羅万象を生みださなければならないのです。なにもないところになにも生まれなければ、これじゃやったことにならない。さあ、どうするか。
そのとき役者のエネルギーと観客の感性とがピタッと一致すれば、そこに雪が降り花が咲くことになる。もちろん役者の力で舞台の良し悪しはきまるのだけれど、役者と観客が呼吸というか気が通じ合うことが大切で、能の場合は実は観客も舞台に参加しているところに特徴があります。だから能は難しいんだ(笑)と、二の足踏まないで下さい。

いやいや、だから能は面白いんだともいえそうです。
ところで、能の作品は古典ばかりのようですが、時
には新作もありますね。分かりやすい新作が人をひ
きつけるかも知れません
野村:今ある古典も初めは新作だったのですね、あたりまえだ(笑)。能の題材に適した題材ならば、大いに新作をやるべきです。
 私も昨年、「実朝」という新作を演じました。高浜虚子の大正時代の作品ですが、まだ上演されていなかったから新作です。分かりやすい題材を新作能としてとりあげて、見ていただきたいと思っています。特に外国で発表するときは、例えばイソップ童話とかシェクスピア芝居などから題材をとるとかね。日本の新しい題材もあるでしょう。
 古典重視は間違いのないことだけど、それに加えて幅広く新しいことをやっていくべきですね。それで古典が傷つくほどの、弱く貧しい伝統じゃないですよ。新作をやることによって、また古きを知ることがあるのです。
 能楽は古典と言われて何百年も継承されてきていますが、実は全く変っていないのじゃなくて、時代時代のニーズに対応して変ってきているのです。変ってきたからこそ今日があるのです。
 伝統とは古いものじゃなくて、過去現在未来の世界があるから伝統なのです。過去に決ったものを、寸分たがわず演じたから伝統だというものじゃない。その時代時代を生きてきて、それでもまだ足りないから未来に向かって生きる可能性を秘めているところに伝統の強さを感じます。

能のストーリーにはどの様なテーマがあるのでしょうか
野村:能の大きなテーマは生と死で、これは人生の永遠のテーマなのですね。能の分かりにくい原因のひとつに、忠臣蔵のような特定の事件を扱っていないことがあると思います。事件は時間がたてば古くなり消えやすいけど、生と死は人間が生きている限り続くテーマです。事件を扱うとその背景となるいろいろなことを知らないと分からない。ところが生死はいつも人間が直面している。
 もうひとつ人間の重要なテーマの、恋についての演目も多い。例えば源氏物語や伊勢物語に題材をとった作品ね。男性の役者が女性を演じるような演劇でありながら、実は男性が主役になる作品の良いのがないのです(笑)。ほとんど女性がテーマだね。

能の音楽の囃子はとても不思議です。小節も拍子も
なくて、どういう風に呼吸があっているのでしょう。
全くリズムがなくやっていて突然始まることもあります
野村:能のお囃子を西洋音楽流の楽譜にすることもできますが、それが使いものにならないのですねえ。能はメトロノームのような運び方をしないものですから。ポッポッポッポッと規則的にきざんで行くリズムが、途中でハッと一瞬止ったりする。心臓の不整脈みたいにね(笑)。音のないところも音楽として成立しているのです。
 だから能は「間の芸術」といえます。「間」とは、実は裏側で、音楽として表れているところは表側です。能は裏側を大事にするものです。例えば鏡を見て自分の前姿を修正しながら練習もするけれど、それよりも背中のほうを大事にする。背中ができていると実は前もできているものです。その逆はない。
 もうひとつ、実は能にはスレいうことが大事なのです。合理的に言えば、最初から終りまで間も演技もぴったりと合っているのが完成度が高いといえますが、ベテランになってくると、「間」の許容範囲がひとつじゃなくなる。例えば、1拍カチッとならして1秒としましょう。普通ならそれで時間が決まるのだけど、ベテランになると、その1秒を厚みがあるものにして、そこにスレを起こして演技をするのです。水泳競技で0秒以下のタイムがあるね、あれがスレですよ。あまりにスレてしまうと駄目だけど、この1秒の中でスレを起こすのです。
 歌舞伎役者の六代目菊五郎は、とても「間(ま)」の演技のいい人でした。その菊五郎が「間は魔」と言ったそうですが、すごい役者の言いそうなことですね、間を魔物とはねえ。
能には間とかスレとか裏とかありますが、これを表側だけでやってしまうと簡単で、分りやすいと思いますね。でもね、分りやすいものがよいものかと言えば、そうとも言えない。分ったから感動したのじゃなくて、分らないけど感動したことに、なにか大きな潜むものがあるでしょう。

そうですね。英語の言葉が分らなくてもビート
ルズの歌に感動します。むしろすぐには分らな
いものに直面してこちらの思いを投げかけ、分
らないことが分ることに至るところに感動があ
るのかもしれません
野村:例えばゴッホの絵を見るとしましょう。あれは本当は題名はいらないと思うのね。見る人が、おおこれは「糸杉」だ、これは「炎の人」だと、自分でつけていけばよいのです。絵が語りかけてきているのに対して、見るほうがこうやって応えているのですね。能も絵画と同じような見方で、動く彫刻として見ていただくとよいですね。
 とにかく、自分が感動できない人間ではいけません。ニューミュジックでも安室奈美江でも宜しい。自分が感動する体を持っていなければ相手を感動させることはできませんね。ですから人に感じさせると言うと高慢ですが、感動と言うものは能を舞っている役者が最高に昇華した現象だと思います。

舞台監督の役割は、誰がなさるのでしょうか。
舞台稽古はどのくらいなさるのですか
野村:舞台監督という言葉はないのですが、主役であるシテ方の役者が全体をまとめる役割を持っています。「申し合せ」といって、公演の直前に出演者が集まって舞台稽古をいたします。
 まだ未熟で若い人がシテの場合は、後見といってシテの先輩あるいは師匠格の人が、申合せの時に総合的なチェックをし、スレが大きい場合に調整します。
 合同の稽古はこの一回だけで、原則として準備万端ととのえる稽古を一緒にすることはありません。それぞれ別個に練習して、グランドでいきなりぶっつかるのです。シャモの喧嘩みたい(笑)。
 でも決して即興の演技ではありません。何百年にわたって演出を練りに練りつくして、かなり鋳型にはめられたようになっています。そうはいっても生きものだから、どんなに約束事を作っても、どんなにも練習しても、機械のように同じ繰り返しはできません。その時だけできる旨い新鮮な演技が生まれて、そこに面白さというか芸術があるのです。約束事を守りながらも自分の演技として破っていくエネルギーがないと表現にならない、観客に訴えるものがない。なかなか難しいことだけどね。それを互いに舞台でスパークさせるのです。
 それには練れた芸はよいけれど、自分に安心した慣れた芸ではいけません。公演前にしっかりと合同稽古すると役者が慣れ合って互いに旨くやりましょうってことになり、芸に厳しさがなくなる危険性があると思うのです。いきなり舞台でプラスとマイナスがスパークする、それが能の持っている特殊性ですね。
 能の一公演は一日一回で終りですから、観客と舞台との一遍こっきりの出会いですが、実は舞台の上の演者たちも一遍こっきりのぶつかりなんですね。お茶で言うところの一期一会で、そのときかぎりの出会いを大切にするのです。能とは、そういう世界なのです。

能の衣装は絢爛豪華です、すごく重そうですね
野村:特殊な衣装で装束といいますが、金糸銀糸で織られていて実に重い。通常着ているクナッとした衣装はほとんどなくて、裁断も直線でカチッとした直線を生かした堅い衣装を着ます。
 でも、着ている中身の役者までカチンカチンでは駄目。からだの芯がきちんとしている役者ならば、堅い装束を着てどんなに舞台で舞っても着くずれしません。ひも一本だけで結わえた着物でもね。
 能の舞台での動きは、からだや手をどんなに激しく動かしても、体の芯は動かしません。上下運動を嫌い、腰を据えて水平に真っ直ぐに動く。頭が上下に動かない。社交ダンスでも旨い踊りはそうですよね(笑)。昔は頭の上に水桶の載せて舞い、水がこぼれないように稽古したものです。

能は仮面劇ですが、面をつけると舞台の大きさが
普通よりも違って見えるでしょうね
野村:仮面は面(おもて)とよんでいますが、あれで視野は狭くなるし遠近感も全然違ってくる。歩行を難しくさせ、平衡感覚を失いますね。これにはとにかく慣れなきゃならなりません。舞台の大きさはね、私たちの修行過程には舞台の拭き掃除も含まれていましてね、舞台寸法がからだに染み込んでいるのです。目をつぶっていても、舞台から落ちることはありません(笑)。
 舞台の柱の間隔は3間ですが、それが柱の芯々か内法かで動きが一歩違いますよね。一歩の違いが狭いと感じますね。

舞台の四隅の柱が舞台上の動きの目印になるので
しょうか。角の目付柱は観客には邪魔ですが、
必要なのでしょうか
野村:舞台で柱を目標にして動くと、演技に迷いが出ます。柱を探して動くのじゃなく
て、気で動きますからね。舞台の角の目付柱を取り去った舞台もあるけど、建物としておかしいと思うね。あの柱は能の演技と関係があり、私はあったほうがよいと思います。あれがあることで舞台に遠近感が出るのです。無いと平面的になる。
 例えば、「羽衣」という能で、三保の松原で天人が下界に舞い降り、漁師に羽衣を取られ。天に帰れなくて悲嘆に暮れ、天上の里を恋い偲ぶのですが、このとき目付柱のところで上を見ることによって遠近が出るのですね。でも能舞台の泣きどころでね、是非論はいろいろありあます。

能の舞台は四角に客席に飛び出している形です。
舞台から左に出る細長い「橋掛り」とよばれるとこ
ろは、普通は出入りだけにしか使われません。とこ
ろが、先生はよく橋掛りのほうまで大きく舞台とし
て使う演技をなさることが多いように見受けます
野村:基本的には四角なメインステージで舞うもので、橋掛りは登場するためのものとされています。ところが、橋がかりを利用して舞に変化を付けようとするのですね。
幕から出て橋がかりを通って舞台に入るとそこは京の都、もう一度橋がかり戻ってまた舞台に入ると今度は琵琶湖になる、そういう場面転換の場合の表現方法があります。それから、舞踊的な変化に橋がかりを使うこともあります。
 舞台と橋がかりの関係は、四角な舞台は現世つまりこの世、それに対して橋がかりの突き当たりの幕の中、鏡の間といって観客の目の届かないところはあの世つまり過去なんだね。実はあの長い廊下は過去と現在の橋渡しをしているのですね。

聞き手:大岸文夫、越野圭子、伊達美徳(記録)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
注:このインタビューは1998年1月6日午後、東京渋谷「はせど舞台」にて、雑誌「まちなみ建築フォーラム」の特集記事として記録したが、雑誌の休刊により公刊されなかった。野村先生の許諾を得てインタネットサイトに掲載した。(2005年3月24日)