野村四郎講演「能という伝統が過去と未来をつなぐ」2006

能という伝統が過去と未来をつなぐ
観世流シテ方能楽師
野村四郎

北山創造研究所主宰 「Eergy Link &」講演(2006年10月26日)

【野村四郎(のむらしろう)プロフィール】
一九三六年和泉流狂言方六世野村万蔵家に四男として出生
一九五二年二十五世観世元正に内弟子入門
一九五五年初シテ『俊成忠度』
一九六二年独立、これより観世流シテ方として活躍
一九七八年重要無形文化財総合指定の日本能楽会会員
一九八七年野村四郎の会『求塚』で文化庁芸術祭優秀賞
一九九四年芸術選奨文部大臣賞
一九九八年紫綬褒章
二〇〇三年第二十五回観世寿夫記念法政大学能楽賞
二〇〇六年2005年度(第六十二回)日本芸術院賞(近年の舞台活動に対して)。
豊竹咲大夫、村尚也と「謡かたり三人の会」を結成。
ヨーロッパ、アメリカ、インド等で能楽公演を行い、世界各地の普及に貢献。ワシントン大学、ハワイ大学等での能楽指導など行う。東京藝術大学音楽学部教授として、教育活動とともにジャンルを超える邦楽アンサンブルを提唱し、『熊野の物語』、『竹取物語』、『宮沢賢治曼陀羅』など企画・演出・出演。
東京芸術大学名誉教授 社団法人日本能楽会会長 社団法人観世会監事 社団法人銕仙会理事

・・・・二〇〇六年十月二十六日講演

「初心忘るべからず」や「秘すれば花」は世阿弥の言葉
 能は、奈良時代に中国から伝来した、全ての芸能の源といわれる「散楽」から抽出されて生まれたと言われています。室町時代、先行する芸能の影響を受けながら、観客の要望に応える新しい発想が加わり、その原型ができました。「猿楽」の能と言いますが、この「能」とは、職能、能力者という意味です。
 「能楽」は明治時代にできた言葉ですが、室町時代に能を大成させた立役者は、観阿・世阿弥親子でした。観阿弥の頃は、つきものや鬼畜といったおどろおどろしい題材が主でしたが、そのイメージを一新させたのが、息子の世阿弥でした。
 彼には、「雅」な世界を創造しないと時代に取り残されるという考えがあったのでしょうか。文化人の目に適うものをと考え、「伊勢物語」「平家物語」といった日本古来の文学を題材に、これを「本説」といいますが、能づくりに励み、沢山の戯曲を確立しました。
 世阿弥は企画、制作、演出、作曲、そして主役を一人で為したのです。天才と言われる所以がここにあります。その功績は非常に大きく、能は文化的にも大変価値が高まりました。また当時、男性の陰にいた女性を主人公にするという新しい考えを示しました。女性の救済者です。
 世阿弥は「風姿花伝書」というバイブルを残しています。その中には、「初心忘るべからず」や「秘すれば花」といった時代を超え、現代の私たちにも響く言葉が多く残されています。その中でも「離見の見」は、私も大好きな言葉の一つで、常に自分の芸を客観視しなさいという、自己の研鑽の大切さを教えてくれます。

能の復興
 安土桃山時代、日本独自の「心」の文化が花開き、日本の文化は興隆期を迎えます。能もさらにドラマティックになり、天下の秀吉も能に興じました。
 江戸時代には、能役者は国家公務員となります。生活の心配もなく、能は文化芸能として定着し全国に広がりました。
 しかし、明治維新の文明開花によって能役者は路頭に迷い、ばらばらになってしまいます。そんな折、岩倉具視は西洋に使節として渡り、オペラを観て感動します。
 そして、「日本も海外に魅せるものが必要だ」と考え、帰国後、ばらばらになっていた能役者を東京に結集させ、能を復興させました。おかげで、消滅しかけた能が今日まで生
き永らえることになったのです。

狂言の家に生まれ
 私は狂言の家に生まれました。当然のように「狂言師」になるため、父のスパルタ教育を受け、殴られても、泣きながらでも教わり、上手に芸ができないと夕食抜きという厳しい稽古の毎日でした。
 狂言の本質は「笑い」ですから、半分泣きながら「笑い」の稽古をしていたものです。しかし、どんな苦難でも「負けるものか!」と乗り越えられる精神をつくってくれたのは、父のおかげだと今は心から感謝しています。
 私が能に魅せられたのは、十五歳の時でした。この思いをぶつけた時の父の答えは「わしは知らん」でした。しかし、観世流の家元に出向き、「弟子にしてやって下さい」と口をきいてくれたのも父でした。
 しかし、いざ入門してみると、「芸は教わるものではない、盗むもの」という狂言とは正反対の能の稽古に、狂言で育った私は、本当に困惑してしまいました。
 能と狂言の違いは、能は「謡い」と「舞い」の世界だということです。狂言にも謡いと舞いはありますが、基本的には対話劇です。また、能の台詞は「候」調、狂言は「ござる」調です。衣装も、能は上から下まで絹の衣装、そして顔には能面です。
 狂言は麻の衣装、顔も素顔なので「お色づけ」と言って公演前に少しお酒を飲むこともあったようです。狂言は「麻」、即ち庶民の芸能ですが、能は「絹」の文化として発展したのです。

能と物理学の不思議な共通項
 以前、物理学会に招かれ、「能と物理学」について考える機会がありました。その席でアインシュタインの話を聞き、「能の考え方は、相対性理論だ」と、世阿弥とアインシュタインが思わぬところでつながる一大発見をしたのです。
 表裏一体という言葉がありますが、まさしく能は、この相対するものを常に意識します。例えば、能が演じられたのは野外でしたが、その名残からか室内になった今も、日の高い午前中は発する声を低くし、日が西へ傾くと、高音に上げるというような慣例があります。
 また、現在はほとんど認識されていませんが、「静中の動」、「動中の静」というように、心が大きく昂ぶり、揺れ動いている時ほど、動きは静かにするのが能の表現の基本です。前進するには、実は前進したくない気持ちを持つのが、能の歩き方なのです。こうした天地陰陽といった考え方は、他の芸能にも見られることを考えると、これは日本人の文化ではないかと考えています。
 過去・現在・未来をつなげていくのが「伝統」、能楽は、ユネスコの世界無形遺産認定を受けました。その際のシンポジウムで、私は「遺産」は有形な物であり、無形なものについて言うのは疑問だと申しました。芸能は生き物ですから、絶えず変化していくものですし、時代時代の価値観と共に歩んでいくものに対して、「遺産」という言葉をあてはめることに違和感があったのです。
 また、能は「古典芸能」と言われますが、古典という言葉も、古いものという感じがします。能は時代劇ではありませんし、その根本には「生と死」という普遍的テーマがあり、これは生きとし生けるものがある限り、いつの時代も変わらない永遠のテーマです。ですから能は、時代劇ではなく現代劇でもあり、未来劇でもあると私は信じて演じています。
 能は元々、屋外に敷かれた芝にすわって観たことから「芝居」と呼ばれ、非常に庶民と近い芸能でした。また同時に神や仏の存在も非常に近いものでした。昔の人は、六感や夢といった目に見えない部分を感じる想像力が非常に旺盛でしたが、文明が進むに従い、神や仏は遠くなってしまったように思います。文明によって、人間が本来持っていた能力が消滅してきているようにも感じます。
長年、能の道を歩んできて、近頃強く感じるのは、「体験」の大切さです。「体験」は、体力の衰えもカバーしてくれます。脳に刻まれた「体験」の記憶を活用できれば、何歳になっても能役者として、舞台に立てるのではないかと思います。
「伝統」とは、過去・現在・未来をつなげていくことです。この三つが揃ってこそ「伝統」は継承されるので、未来への思考が重要なのです。私が、サインを求められた時に必ず「人生は創るもの」と書くのは、常に未来を切り拓いていくという自分に対する戒めでもあるのです。

(北山創造研究所主宰「Eergy Link &」での講演(2006年10月26日)より)